少年ジャンプ新連載『シューダン!』について思うこと。または少年ジャンプへの問い。
少年ジャンプ新連載『シューダン!』について思うこと。または少年ジャンプへの問い。
この記事書いた後、打ち切られましたね。一人一人のキャラを丁寧に描くと思いきや、キャラの掘り下げもしないうちにどんどん敵キャラを出して、主人公やナナセちゃんロクくんばかりにスポットライトを当てたせいで、単純な主人公持ちあげマンガに感じてしまい、失速したようにみえます。相当早い段階で期待してたものとは違う方向性に話が進み、悲しく思いました。記事は残しておきます。
横田卓馬先生の新作『シューダン!』がはじまって早5週間。このマンガは、間違いなく面白いです。
前作『背すじをピン!と〜鹿高競技ダンス部へようこそ〜』が突然終わったことは残念でしだが、すぐにこのような素晴らしい作品が始まったのはうれしい限りです。
改めて言いますが、このマンガはすごく面白いです。末永く連載してほしいと思います。
その上で、あくまでこのマンガのファンだということをふまえた上で、このマンガについて考えたことを、いくつか批判的に書いていきます。念を押しますが、ここで言う批判とは、けっしてネガティブな意味合いを持ちません。ただ、少年マンガの「時代性」を考えるにあたり、いくつか言いたいことがあるだけなのです。そしてこの文句の向け先は決して作者の横田卓馬先生ではありません。また論とは言いつつも、内容は私の「推測」が基盤になっています。
■目次■
主人公は異例の小学生
主人公は少年ジャンプにしては異例の小学6年生です。
最近の過去作を遡ってみても、思いつくのは打ち切り作品『学糾法廷』と『ユート』、『ヒカルの碁』ぐらいです。打ち切り作品と比べるのは酷ですが、『学糾法廷』の主人公は天才論説家であり、『ユート』の主人公はスピードスケートの才能を持つスポーツマンであり、また『ヒカルの碁』の進藤ヒカルは天才棋士・藤原佐為に指導を受けながらプロを目指す棋士でした。そして彼らは皆、野心もしくは強い動機のようなものを持っていました。(『約束のネバーランド』も年齢的には小学生といえば小学生ですが、精神や頭脳のレベルははるかに高く、絶対的な目標を持っています。)
いっぽうで、『シューダン!』の主人公(桜田創始)は特殊な才能や特殊な環境を持っているわけではなく、また野心のようなものもありません。「普通」のサッカー少年です。
主人公が「普通」であるというのは個人的に好きな設定です。なぜなら、キャラクターに「共感」できるポイントが多くあるからです。しかし、その主人公が「普通」の「小学生」であるならば、注意が必要です。というのも、主人公が「普通」であるならば、物語の軸は必然と主人公たちの日常になりますが、「主人公=小学生」の日常イベントは、ある年齢以上の読者からすれば幼すぎると感じやすいものです。この幼さが何をもたらすか、考えてみたいと思います。
幼すぎる物語が引き起こすこと
マンガでも小説でも、人によって程度の差はあれど、人は物語を読んだ後、「もしも自分が登場人物だったならば」と考える時間が発生すると思います。
ずばり単刀直入に。あなたが『シューダン』を読む時、あなたは誰の目線でこの物語の世界に立って読んでいますでしょうか???ひょっとしてそれは、ソウちゃんでもナナセちゃんでもなく、彼らの保護者の立ち位置、つまり、「親の気持ち」のようなものに無意識になっていて、彼らの物語を眺めているのではないでしょうか。
■つまりここからではなく
■こっちの人から。
もしそうであるならば、その人はこのマンガを「第三者的な立ち位置(=子どもを見つめる親の立ち位置)」から読んでいるということになります。「第三者的な立ち位置」の読み方は、読者から当事者性を奪います。キャラクターに感情移入せず、キャラクターを傍観する立ち位置に気持ちが傾いているからです。そして私が思うに、そんな風にこのマンガを読んでいる人はたくさんいると思うのです。
当事者性がない読み方そのものを決して否定するつもりはありません。ただ、殊に少年マンガという舞台においては、ひとつ声を大にして言いたいことがあります。それは、当事者性のない物語の読み方は、読者の少年たちから「学びの機会」を奪うということです。
私たちはマンガから、いろいろなことを学ぶことができます。たとえば、困難への立ち向かい方。友との付き合い方。感情の整理のつけ方。自分が知らないスポーツや趣味のこと。正しいこと、間違っていること。素敵なこと。カッコいいこと。カッコのつけ方。わくわくする気持ち。夢を追う気持ち。熱い気持ち。昂ぶる気持ち。冒険心。探究心。等々……。マンガから手に入れられることは、たくさんあります。それらは特に10代の少年にとってかけがえのない財宝になると思います。
ただしそれらを学ぶためには、キャラクターに「当事者として」感情移入することが必要条件です。読者自身が実際に経験しているかのような錯覚をした時に初めて、ファンタジックなマンガの世界からいろいろなものを学べるのです。逆に言えば、「親の気持ち」になって「第三者的な立ち位置」からキャラクターを眺めているようではそのような錯覚は起きず、それらを学ぶことができないということです。少年から学ぶ機会を奪うということ。これここそが、幼すぎる物語が引き起こすことだと私は考えています。
※もしも『シューダン!』が、才能や野心がある主人公が何かに挑戦するといった物語だったならば、主人公の人格は「小学生ではないもの」として読者に受け入れられ、主人公は、小学生でありながら大人のように扱われ、読者に、「親の気持ち」・「第三者的な立ち位置」のような読まれ方をされることは少なくなっていたことでしょう。
数年後、かつての少年がこのマンガを読みなおして、元気をもらえるかどうか・・・
少年マンガの価値は少年を魅了することだけではなく、かつて少年だった大人が昔読んだマンガを読み返すことで、少年のココロを少しでも思い出し明日を頑張る元気を取り戻せることにあると考えています。私自身、そうやって何度もマンガに救われた経験が多々あります。
青春時代に触れた作品は言うまでもなく後の人生に大きな影響を持ちます。キャラクターが物語の中でいかにして苦難を乗り越えたとか、キャラクターがどれだけ熱かったとか、ヒロインにドキドキしたとか、そういったものが血肉になり、ふとした時に顔をのぞかせるのです。元気というのはいろいろなことがきっかけでわき上がります。カッコいいキャラクターのカッコいい姿を思い出すことでもいいのです。(カッコいいというのは、それだけで男にとって永遠に価値があるものです。)
先ほど、このマンガを親の気持ちのような感じになって読んでいる読者が多いのでは、と書きました。これは私のエゴかもしれませんが、少年たちには、小さな子どもたちを愛でる気持ちよりも、困難に立ち向かう方法とか、わくわくする気持ちとか、前向きな感情、すなわち将来何かあった時にその身と精神とを守ってくれるようなマンガ体験をしてほしいと思うのです。
もしもあなたが鬱になりそうなほど気持ちが沈んでしまったとして、『シューダン!』の子どものかわいさを思い出して、少しでも立ち直ることができるでしょうか……? これを書いている時点で、『シューダン!』は始まってからまだ6週目です。始まったばかりでどう展開するか分からない物語について今からこれ以上あれこれ言うつもりはないです。
ただこうして誰かが声をあげておかないと、人生のピンチの時に救ってくれるような少年マンガが今後少年誌から無くなるのでないか、そして本当に無くなった時、その時代の少年の読者はどうなってしまうのか、と私は危惧しているだけなのです。
少年ジャンプへの問い、または横田卓馬先生への問い
少年ジャンプへの問い
かつて少年ジャンプの作家たちを舞台にした『バグマン』というマンガで、ジャンプの編集長のキャラクターが「マンガは面白ければいいんだ 面白いものは連載される 当たり前だ」と言っていました。実際にジャンプを作っている人たちはそういう思いで仕事をしているのだと思います。
しかし皆さん一度は考えたことがあると思います。「面白いってなんだろう」?と。
これを言いだしたら無限に論点があるので焦点を絞りますが、「面白い」を考える時は、「誰にとって」という発想が不可欠です。万人に受けるような面白さはありません。
さてここで唐突に私の話になりますが、私(1990年代生まれ)はたくさんのマンガを読んで育ってきました。中学生の頃にはBook offや古本市場でマンガを読み漁り、高校生になったらバイトで稼いだお金を使って中古市場には出てこないマイナーなマンガを積極的に買っていました。古いマンガを積極的に読むことができました。大抵の作品は手に入るAmazonは偉大です。私が大学に在学していた頃に電子書籍が大きく普及しました。何かにつけて期間限定で無料公開をする商業誌のマンガも多くあります。
なにが言いたいかというと今の時代は昔と比べて、マンガにアクセスする環境が圧倒的に整備され、読まれるマンガの絶対数量が爆発的に増えているということです。
私はマンガからたくさんのことを学んできました。しかし、マンガを楽しむには学び過ぎたのではないかなと思う時があります。そして本物の少年にとっては「学び」につながるようなマンガを、学び過ぎたがためについ見落としてしまっているんじゃないかと思うことが多々あります。
ジャンプが黄金期をむかえていた時代って今と違ってマンガを読む環境が整備されていなかったわけですから、読者の間で読んだマンガの量にあまり差がなかったと思うのです。つまり、大人も子供も等しく読んだマンガの量があまり多くなく、上に書いたような学びに繋がるマンガ経験を同じようにできる土壌があったと思うのです。つまり、当時はジャンプの読者にとって面白いことを愚直にやっていれば、それがそのまま少年の学びにつながるマンガになっていたんだと思います。
今では、昔だったら手に入りづらいような古いマンガでも、Amazonで売っていたり電子書籍化されていたりして、容易に手に入れることができます。そうやって過去の名作マンガをたくさん読んだ大人や大学生はたくさんいるでしょう。そして彼らは多くのことをマンガから学んだことでしょう。(他ならぬ私自身、『ダイの大冒険』や『北斗の拳』といった古いマンガからいろいろなことを学びました)。ところが、経済力がない中学生・高校生だとこうはいきません。彼らが読めるものには比較的に限りがあります。そうしてここに歴然としたマンガ経験の差が発生するのです。
これが原因で、本来ならば中学生・高校生にとっては面白く感じられ、学びにつながるようなマンガが、既に学び終えた大人や大学生の存在によってつまらないものとして認定され、作り手から排除されているのではないのでしょうか。それどころかむしろ、中学生や高校生には大事だったものが率先して排除されている可能性があるのではないでしょうか。仰々しく見だし書きましたが、これが私の少年ジャンプへの問いです。少年ジャンプの面白いとは、いったいどんな人を相手に想定した面白いなのでしょうか。
横田卓馬先生への問い
次に、畏れ多くも横田卓馬先生への問いです。私は『シューダン!』のことを、「中学生・高校生にとって大事なものが排除された後に、代わりとして現われた、親目線で第三者的な立場からマンガを読みたがる人のための、少年目線を排除したマンガ」と決めつけるつもりは毛頭ありません。前作『背すじをピン!と』は、普通の人間を主人公にすることで、読者のみんなに広くスポーツ活動の素朴な魅力を読者に伝える、もしくは思い出させることを狙ったものだったと受けとめています。そういう作品、私大好きです。
同じようなことを『シューダン!』でもやりたいのだろうなぁと想像しています。私の問いは非常にシンプルです。「普通の小学生を主人公にして、いかに読者の少年を物語の世界に引きずり込み、物語を少年マンガっぽく展開させることができるでしょうか?」。先にも書きましたが、普通の小学生の日常話はどうしても物語そのものが幼くなりがちで、感情移入が難しいです。実際に今のところ話の内容は「しょせん小学生同士のげんか(と仲直り)」が繰り返されているという印象です。
■小学生の口げんか
おわりに
前作『背すじをピン!と』は素晴らしいマンガでした。ここまでいろいろ言ってきましたが、今作もきっと熱い少年マンガになるだろうと信じています。私はココロの底から本気で横田卓馬先生を応援しています。野心があるわけでもない普通の小学生の主人公たちをいかにして少年ジャンプっぽく活躍させるのか。先生ならばなんらかの解を示してくれて、さらには少年マンガの新しい可能性を示してくれると信じています。
今は言いたいことはここまでです。『シューダン!』が1、2年以上連載された時、また記事を書くと思います。
ここまでお読みいただきましてありがとうございました!!
もしよろしければTwitter等で拡散して頂けますと幸いです。できるだけ多くの人の考えが知りたいです。
参考
「背すじをピン!と ~鹿高競技ダンス部へようこそ~」完結記念 横田卓馬先生スペシャルインタビュー
http://www.shako-dance.com/yokota1
※余談だが、静岡県は2つの大都市を持ちながら、受験という意味では有力私立中高が少ない。そのため一つの公立学校に「下」から「上」まで様々な家庭環境の子供が揃いやすいという、地方都市特有の特徴を強く持つ。横田卓馬先生が『シューダン!』でこれを意識しているかどうかはわからない。